■キリ番 8750/せせらぎ様■
お 酒 は ほ ど ほ ど に
「なんだこの有様は」 痛む頭を抱えつつ、フリックはぐるりと辺りを―――酒場の中を見回して、その中で唯一まともな状態を保っているように見えるレオナで視線を止めた。その視線を受けたレオナは、諦めたような表情で煙管の煙を細く吐き出し、首を横に振った。 「どうやらタチが悪かったみたいでね」 す、と綺麗な白い手が指差したのは、フロアの一角にあるテーブルの上に置かれた大きな酒樽だった。 それは、野盗に襲われかけていた行商の馬車を助けた同盟軍の兵士が、お礼に貰ったということでレオナの酒場に運び込んだものだという。 皆でありがたがって飲もう、という話になるのは自然の成り行きだと思うのだが―――問題は、そのアルコールの強さだった。 「アルコール度数80パーセントは下らないっていう強烈な酒でねぇ」 売れ残ったものを体よく押し付けられたのかもしれないね、とレオナは苦笑した。 フリックも、それはもはや酒ではなくただの消毒用アルコールなのではないかと嘆息する。 「それで片っ端から潰れてんのか、こいつらは……」 そう。今のレオナの酒場には、酔っ払いが数多く撃沈しているのだ。 酒場だから当然酔いつぶれた人間はいつもいる。しかし、全員そうだというのははっきり言って有り得ない。 なにせ、滅法酒に強くて潰れたところなど一度も見たことがないハンフリー、バレリア、リィナといった面子までもが、テーブルに突っ伏しているのだ。 「強烈だって解ってるくせに、どうして飲むかなぁ」 とりあえず空いているカウンター席に腰を下ろし、呆れたように言うと、ビールをフリックに手渡したレオナが肩をすくめた。 「解っているからこそ、飲みたかったみたいだけど?『呑まれるのを恐れて酒が呑めるか!』って随分と楽しそうに言っていたよ、ビクトールが」 「……そんなこと言っておいてこの体たらくか」 馬鹿熊が、と冷たく呟くフリックの視線の先には、定位置のテーブル―――すなわちそれは問題の酒樽が置かれたテーブルでもあったわけだが―――にだらしなく顔を埋めているビクトールの姿がある。 軍師に頼まれた仕事が残っていたフリックより先に酒場に向かったビクトールは、レオナから問題の酒のことを聞いて嬉々として手を出したようだ。そして挑戦したビクトールがコップ半分で撃沈し、それを見ていた酒場の面々が、「それくらいの量で熊を潰せる酒ってどんなものなのだろう?」と興味を持ってしまい、自分達も呑んでしまったらしい。 その結果が、この惨状である。正直、「こなけりゃよかった」とフリックは内心で思っていた。 これを見てしまったら、見なかった振りをして立ち去ることなど出来なかった。男どもは自業自得と放っておいてもいいが、女性までもがここで雑魚寝というのは、フリック的には放っておけなかったのだ。 「誰か呼んできて、リィナたちだけでも運ぶか……」 さすがにフリックひとりでは大変なので、無事な人間―――要するに、この酒場にいないメンバーにも頼もう、と席を立ったとき。 「ん……なんだフリック、お前いつの間に来てたんだぁ?」 のっそり立ち上がる気配が背後に感じられ、フリックが振り返ると潰れていたビクトールが顔を上げたところだった。 「まーいいや。来たならお前もソレ飲んでみろよー」 滅多にお目にかかれない代物だぜ?と呑気に笑うビクトールに、フリックは嘆息した。 「潰れることが目に見えて解ってるのに飲むか馬鹿」 カウンターから冷たくそう言い放つと、ビクトールは「付き合い悪ぃなあ」と深々と溜息をついた。あっさりと諦めたビクトールに、普段の強さを知っているフリックは「相当やられてるな」と内心でこっそり思う。 仕方ない、と立ち上がり、フリックはビクトールのいる場所に歩み寄った。勿論、酒を飲むためでもビクトールの介抱をするためでもない。同じテーブルで飲んで潰れてしまっているリィナとバレリアを部屋に戻すためだ。 無理矢理酒を飲まされないように、念のためビクトールの手が届かない場所を選び、遠回りをしてリィナに近づく。 そして、テーブルの上に置いた腕に顔を埋めているリィナの肩を静かに揺らして声をかけた。 「おい、リィナ。寝るなら部屋に連れて行くぞ?」 二度、三度と声をかけながら肩を揺らすと、ようやくゆっくりとまぶたを押し上げたリィナがぼんやりとフリックを見て―――そしてにっこりと微笑んだ。 それはもう艶やかで、リィナに憧れている兵士達が見たら魂を抜かれるような笑みである。しかし、悲しいかなフリックはリィナという女性の性格をよく知っていた。こういう笑みを浮かべているときのリィナは、はっきりいって要注意人物なのである。 「フリックさん、いつの間に来たんですの?」 口調だけは常日頃と変わらぬおっとりとしたものだ。ゆるりと上体を起こして、少しだけ眉を顰める。 「……さすがに、強烈ですわね……」 「わかってるのに飲むなよな」 この未成年が、と苦笑してレオナを振り返り、手振りで水を要求する。頷いたレオナが水差しを取りに行くのを見送っていたら不意に勢いよく腕を引っ張られた。 「わっ!?」 そのままの体勢で後ろに倒れこむ。咄嗟に手をテーブルにひっかけて体を支えたので無様に床に頭を打ち付けるような事態は避けられたのだが、運の悪いことに椅子に座ったリィナの膝にちょうど頭をもたせかけるような体勢になってしまった。 「すまんリィナ、すぐにどくからっ」 その柔らかな感触に慌ててフリックは立ち上がろうとしたが、その肩をがっちりと右手で押さえ込んだのは、その膝枕の主であった。 「まあまあフリックさん。一緒に楽しみましょう。ね♪」 ひどく楽しそうににっこりと笑って、リィナは空いている左手でテーブルの上のグラスを手に取る。その中には、半分ほど透明な液体が入っていた。 「み、水?」 そうだといいなという願望でフリックが言うと、「は・ず・れ」とリィナは可愛らしく首を傾げた。 「一緒に楽しむための飲み物ですわ」 一緒に、を強調したリィナの言葉に、フリックは的確にその意味するところを捉えた。 要するに、この酒場の状態を生み出した問題の酒だということだ。 「ちょ、リィナ待てって、俺まで潰れたらこの状態をどうするつもりなんだよっ」 慌てて立ち上がろうとしたが、どうにも体勢が悪く、明らかに自分よりか弱いリィナの拘束から抜け出すことは出来なかった。 本気で飲みたくなかったフリックは周囲に助けを求めるような視線を向ける。が、レオナがいない今、ここで意識を保っているのはリィナと後はひとりだけ。縋るような視線をそのひとりに向ければ、にっかりと笑った。 「飲んどけ飲んどけ。たのしーぞー」 止めるどころか煽ってくれる相棒に、「馬鹿野郎!」と叫ぶために口を開けたところに、問答無用にコップの中の酒が注ぎこまれた。 ―――ああ、レオナすまん。片付け……… 薄れ行く意識の中で、フリックはそう呟いた。 「…これはまた」 その光景を入り口から確認した元マチルダ騎士団の団長は、思わず、といった口調で呟いた。 「…さっきまでは、マトモだったはずなんだけどねぇ」 諦めた様子でカウンター席に腰を下ろし、煙管を吹かせたレオナが肩をすくめた。 二人の視線の先には、滅多に見られない満面の笑みを浮かべたフリックが、ビクトールの首根っこを引っ掴んで無理矢理酒を飲ませている光景が広がっている。 底なしの熊と言われるビクトールも、日頃飲むこともない度数の酒を摂取したためか、死にそうな表情になっている。その隣では、結構元気な様子で便乗して飲んでいるリィナの姿もあった。 「……出直してきます」 「ちょっとお待ちよ」 くるりと踵を返してその場を離れようとした赤騎士のマントをむんずと掴み、レオナが引き止める。 「アタシひとりでこの中にいろって言うのかい、カミュー?」 逃がさないよ、という気迫のこもった眼差しを受けてカミューは困ったように微笑んだ。 「まあレオナさんはこういう状況に慣れていそうですし」 私はちょっと、と笑うカミューは「底なしのくせになに言ってんだい」と白い目を向けられて小さく肩をすくめた。 「私がここに入ったところで、どうにもならないでしょう」 ここまで盛大に酔っ払って潰れまくっているのである。仮にカミューが参加して共に酔っ払おうが、もしくはこの中で飲み続ける人々を止めようが、この惨状はどうにもならないだろう。 君子危うきに近寄らず、という言葉を噛み締めつつカミューは言ったが、それでもレオナはマントを離してくれなかった。 それどころか、 「あんたの欲しがってた群島諸国産の赤ワインを譲ってあげるからさぁ」 と取引めいた言葉を投げかけてきた。よっぽどこの状況をどうにかしたいらしい。 「フリックだけでも止めて、部屋に放り込んできてくれないかい?」 今現在、酒場で一番破壊力のある人間を指差したレオナに、つられる様にカミューも視線を流した。 「確かに、フリックさんを止めれば、これ以上の損害は防げそうな雰囲気ですね…」 そもそもまともに―――と言ってもいいかどうかは微妙だが―――意識を保っているのが三人、うち、元気に飲ませまくっているのがフリックである。 リィナはのんびりと自分だけで飲んでいるだけだし、ビクトールに至ってはフリックに無理矢理飲まされている状態なのでフリックさえどうにかすればもう飲まないだろう。 何より、困っているレオナを見捨てて部屋に戻るのは恐ろしくて―――もとい、騎士の誇りにかけても出来ることではない。 などと素早く脳内で考え、カミューはにっこり笑って了承した。 「わかりました。それでは三本で手を打ちましょう」 「そいつは贅沢だねぇ。せめて二本に負けといておくれよ」 「了解です。それじゃ明日にでも取りに伺いますね」 しっかりと見返りを確認して、カミューは問題の中心地へと向かった。その背中に、「頑張っておくれよー」とレオナが励ましの言葉をかけた。 了解したと言っても、具体的な策を思いついたわけではなかった。 (まあ、適当にフリックさんだけ誘い出して……そうだな、部屋で飲みなおそうと誘うか) 陳腐な手だが、まあ酔っ払い相手だから有効かもしれないな、と考えて騒ぎの中心を大回りしてフリックの正面から近づく。 リィナはそのカミューの行動に気付いて「あら」というように目を見開いたが、いつもの妖艶な笑みを浮かべて沈黙を守った。止めないということは、彼女としてもそろそろ引き上げるつもりでいるのだろう、とカミューは判断し、フリックに手を伸ばされても逃げられる距離を保って足を止めた。 「フリックさん」 いつものように笑みを浮かべて呼びかけると、ビクトールのグラスに酒を注ぐ手を止めて顔を上げた。 一瞬きょとんとした顔をしたフリックだったが、その声の主がカミューだということに気付くと、非常にご機嫌な笑顔でもって手をあげて挨拶をした。 「よお、カミュー。お前も一緒に飲もうぜ」 美味しいぞこれ、と左手に持った瓶を振る。諸悪の根源は樽酒だと聞いていたカミューだが、どうやらその瓶の中身も同じものなのだろうということにすぐに気づいた。おそらく人に―――この場合はビクトールに飲ませにくいから、空き瓶に樽酒の中身を移したのだろう。 「ありがたいお誘いですが、遠慮させていただきますよ」 にこりと笑ったままはっきりと断ると、「そうか?残念だな」とフリックはあっさり引き下がった。てっきり食いつかれるかと思っていたカミューは「おや」と意表を付かれた顔で首をかしげる。どうやら見境なく他人に飲ませるほど、酔っ払っていないということだろうか。 そんなことをカミューが考えていると、手にしていた瓶をテーブルに置いてフリックはじぃっとカミューの顔を見つめた。 「まあ、お前の場合、こういう蒸留酒よりもワインの方が好きだもんなあ。酒は楽しく飲むもんであって、無理して飲むもんじゃあないからなぁ。な、ビクトール」 にこやかな笑顔を保ちつつ、傍らで倒れ伏している相棒にフリックが話を振ると、のろのろと顔を上げたビクトールはげっそりした顔でぼやいた。 「お前、言ってることとやってることの差がありすぎだぞ……」 今さっきまで無理矢理飲まされていたビクトールの言葉には説得力があったが、フリックはあっさりかわした。 「お前は味なんて気にしないだろ?」 何飲んでも楽しいだろ、と言われ、ビクトールは返す言葉がなかったらしく、そのまま机に突っ伏した。言い返す言葉が見つからなかったというよりも、言い返す気力がないように見え、あのビクトールをここまでやりこめるほどの酒とは一体どのようなものなのかと思わずカミューは興味を持ちかけてしまった。 (いけない、いけない。ここで興味を持ったら、皆と同じ状況になってしまうじゃないか) そんな内心の思いを少しも顔に出さず、表面的にはいつものような隙のない笑みを浮かべ、「ところでフリックさん」とカミューは話を切り出した。 「実は、とっておきのワインが手に入りましてね。もしよかったらご一緒にどうかと思ってお誘いに来たんですよ」 とっておき、の言葉にフリックが反応したのを見逃さず、カミューはたたみ掛けるように言葉を続けた。 「私の部屋においてあるんですけれど、どうです?蒸留酒には楽しんだようですし、ワインで口直しをしませんか?」 にこにこと誘いをかけるカミューに、ビクトールは轟沈したまま「これ以上こいつに酒を勧めるかお前…」と呆れたように呟いたが、カミューはそれを綺麗に黙殺した。 誘いをかけられた当人は、しばらく左手に持ったままの瓶を眺めていたが。 「そうだな。これはこれで旨いんだが、ちょっとばかりあっさりしすぎてるんだよな」 どうやらまだ飲み足りないらしいフリックの言葉に、カミューはこっそり溜息をこぼした。 「それなら丁度いいですよ。割と重めの赤ワインですから」 その説明に、フリックは満面の笑みを浮かべて「じゃあ、お言葉に甘えてお邪魔するかな」と立ち上がって。 「あれ?」 どうやら顔にはあまり出ていなかったが、足に酔いが来ていたらしい。がくりと膝から力が抜け、そのまま床に前のめりに倒れてしまった。 ごつん、と結構痛そうな音に、カミューは慌ててフリックに駆け寄る。 「だ、大丈夫ですかっフリックさん!」 倒れ伏したまま身じろぎしないフリックに、カミューは手を伸ばしてその肩を揺らそうとしたが、そうする前にビクトールが「やめとけカミュー」と口を挟んだ。 テーブルに頭を落としたまま、横目でカミューを見ていたビクトールは、呆れたような表情をしていた。 「そいつ、限界を突破して寝ただけだ」 言われて再度フリックを見、耳を近づけると、確かに静かな寝息が聞こえてくる。 「……人騒がせな酔い方をする人だな……」 やれやれ、とカミューは肩を落とし、ビクトールへと向き直った。 「このまま床で寝かせておくのはさすがに忍びないので、部屋まで運びますけれど……あなたはどうしますか、ビクトールさん?」 「あー俺はいいや、ここで。もう動くのも億劫だしなぁ。悪ぃけどそいつ、部屋に放り込んでおいてくれよ」 普段ならば、酔いつぶれたフリックを部屋に連れて帰るのは、同室者―――というよりも相棒であるビクトールの役目なのだが、そういう当たり、どうやら強かに酔っているのだろう。 恐るべし、熊殺しの酒、と口にしたら文句を言われそうな感想を抱き、カミューはフリックの身体を背負った。装備を外していてくれて助かった、と思いながらビクトールに「では部屋へ連れて行きますね」と断りを入れる。それにビクトールはひらりと手を振って返すだけだった。 ぐるりと部屋を見回すと、いつの間にかリィナの姿が消えていた。おそらく今のやりとりの間に部屋へ戻ったのだろう。 酒場の主は、今晩は片づけを放棄したらしく、離れた場所で呑気にグラスを傾けていた。 「それではレオナさん、約束忘れないで下さいね」 「はいはい。明日、都合がいいときに取りに来るといいよ」 にこりと笑ったレオナに見送られ、カミューは酒場を後にした。 なんだか基礎体力作りの訓練みたいだ、と自分とあまり変わりない体重のフリックを背負いながら思いつつ、階段で二階へと上がり、カミューは真っ直ぐにフリックの部屋へと向かった。 扉を開けると、カーテンの隙間から月の光が細く差し込んでいた。その月明かりを頼りにカミューは部屋の奥にあるベッドへと足を進める。なるべく起こさないように、とゆっくりと背中のフリックをベッドに下して、カミューは溜息をひとつついた。 「ふう、結構な重労働だったなぁ」 疲れた肩を軽く回しながら、カミューはふとフリックへ視線を落とした。軽装とはいえ、いつものように額にしっかりと巻かれたバンダナと、仕込み武器の多い重たげなブーツのまま寝るのは、なんだか身体に悪そうだった。 「失礼しますよ、フリックさん」 眠っていて意識はないが、一応小声で断りを入れてからカミューはおもむろにフリックの足からブーツを脱がす。複雑な留め金を外して、両足分そろえて床にそっと置いた。 続いてバンダナを外すべく、カミューはひょいとフリックの上にかがみこむ。きっちりと縛られたバンダナは、なかなか外れずにカミューは困ったように嘆息した。 その溜息を感じ取ったのか、フリックがうっすらとまぶたを上げた。ぼんやりとした青い瞳が自分に向けられたのに気付き、カミューは苦笑を浮かべて「起こしてしまいましたか」と謝った。 「けれど、寝るにはこのバンダナを外した方が―――ってフリックさん!?」 唐突に跳ね上がった声は、起きたのを幸いに本人にバンダナを解かせようとそう言いかけたカミューの腰に、フリックが突然腕を回して身体を引き寄せたためだ。 不安定な体勢でフリックのバンダナを外そうとしていたカミューは、あっさりとベッドに倒れ伏す。慌てて起き上がろうとするが、意外にも強い力でフリックにベッドに縫い付けられ、それは叶わなかった。 「ちょ、フリックさんっ!離してくださいよ!」 そういえば、酔いに酔った時に、たまにフリックは抱きつき癖を発揮することがあったな、とどこか冷静に思い出しつつ抗議する。 だが、カミューの抗議の声が耳に入らないのか、フリックはカミューの腰に腕を回したまま、片耳をその胸に押し付けた。 「あー、落ち着く、な……」 そう言って、再び眠りに落ちてしまった。 「フリックさん?フリックさーん……あの、寝るのはいいんですが離してくださいよ…」 名を呼び、自由の利く左手で軽く肩を揺する。が、熟睡モードになったらしく、今度は目を覚ます様子がなかった。 がっちりと腰を押さえ込まれたままでは、身動きもとれず、カミューは諦めて身体の力を抜いた。 己の胸に耳を当てたまま、心地よさそうな顔で熟睡するフリックの表情に、思わず笑みが漏れる。 「落ち着くって……ああ、心臓の音、か」 心音は、胎児の時から耳馴染む音なので、安心できる音だと何かの本で読んだことがあった。だが、フリックのこの行動の理由は、それだけではないだろう。 『前の戦争で彼女を亡くしてから―――時々、こうやって側に居る人が生きていることを確かめるようなことをするんだよな』 それも、記憶がなくなるほど酔っ払った時に限って。それは、常日頃意識していない想いが、たがを外してあふれ出すためだろうか。 いつだったか酒の場で、ビクトールから聞いた言葉を思い出し、カミューはひとつ年上の友人の頭を、子供にするようにそっと優しく撫でた。 「貴方がそれで落ち着くのならば―――、一晩くらいはお付き合いしますよ、フリックさん」 足元に押しやられていた毛布を器用に引き上げ、フリックの肩に掛けながらカミューはそっと囁いた。 「すまんっ本当にすまんっ」 朝早くに飛び起きたフリックは、ベッドの上で正座して律儀に頭を下げて謝り倒してきた。その姿を、寝ぼけた頭でしばらく見つめていた後、「ああそういえば」と手をぽんと叩き、カミューはフリックに引きずり込まれてそのまま寝てしまったことを思い出した。 「そんなに謝らなくてもいいですよ。フリックさんの安眠のお役に立てたようですしね?」 くすくす笑いながらカミューが言うと、「それでもすまん!」とフリックは詫び続けた。 それじゃあお詫びにワインでも奢ってください、とカミューが苦笑交じりに提案するまで、フリックの謝罪は続いたという。 「もう絶対に深酒はしないぞ!」 しばらくの間、「お酒はジョッキ一杯まで」という標語を書いた紙をレオナの酒場の壁に貼ってそう宣言したフリックだったが―――それが守られたのは、たった三日間だけだったらしい。 三日後、普通にジョッキを空けていくフリックの姿を見ながら、 「まあフリックさんが節酒できるとは思ってませんでしたしね」 「酒好きだからなあ、あいつ」 フリックに奢られたワインを片手に、カミューとビクトールの間でそんな会話が交わされていたことは、当人の耳には入らなかったようだ。 fin... |
■あとがき■ |