■キリ番 800/くらげ様■
眠 れ な い 夜 に
時計の針が時を刻む音が聞こえるほど、静かな夜。 いつもならあっさり眠れるような時間なのに、俺は何故か寝付けなかった。 何度も寝返りを打ちながら、「明日は早いんだから…」と羊の数を数えて頑張って寝ようとしたのだが。 「―――ダメだ、眠れない……」 二千とんで三百十三匹目まで数えたところで、その不毛さに気付き、起きあがった。 寝乱れた髪を片手で梳きながら、ふうっと溜息をつく。 窓からは綺麗な満月が空の頂点にさしかかったのがよく見える。 この月明かりが気になって眠れないのか、と自問したところで、思わず苦笑した。 「……別に、野宿していたときだって、眠れていたのにな」 今さら自分がそんなに繊細な人間だとは思っていないので、月明かりのせいにするのは止めた。 ベッドから降り立つと、素足にひやりとした床の感触が伝わる。 なんとなく気持ちが良くて、そのまま素足で窓に近寄り、外を見た。 鬱蒼とした森の中に立つこの砦の近くには民家がない。おかげで見えるのは月明かりに照らされているところだけだ。 鍵をはずし、静かに窓を押し開く。さわやかな夜の空気が部屋の中に入ってくるのに目を細め、俺は窓枠に軽く腰掛けた。 「なんだろうな……どうして、眠れないんだろう」 新しい部屋だから、だろうか。 ミューズの市長アナベルに依頼されて、傭兵隊を束ねることになった俺とビクトールが、補修工事の終わった砦に来たのは半日ほど前のことだった。 隊員達や、食堂兼酒場を切り盛りしてくれるというレオナ達に先駆けてやってきたのだ。補修工事の具合や、不足している物の確認のために。 砦に着いてから、隅々までチェックをし、ようやく軽い夕飯を取って、早々に部屋に引き上げた。部屋は二階の執務室を真ん中に、左右対称に小さめの個室が用意されていた。おそらく隊長と副長用、ということなのだろう。 久しぶりの個室に、俺は『これでお前のいびきにたたき起こされることもないな』と冗談半分本気半分で笑って言った。 別に共に旅するようになってからは宿に泊まれるときは財政上のことから見てほとんどビクトールと同室で寝ていたのだ。野宿の時は言わずもがなである。 最初はビクトールがいびきをかくと途端に目が覚めてしまい、寝不足に悩まされていたのだが、いつのまにか気にならなくなってしまっていた。慣れというのは恐ろしい。 『言ってくれるじゃねえか、フリック。一人じゃ寂しくて眠れない、とか思ってもしらねぇぞー?』とビクトールに切り替えされ、そんなことあるかよ、と笑った。 そして、部屋に入り、疲れに任せてベッドに潜り込んだまでは良かったのだが。 「ほんとうに眠れないんじゃ、しょうがないよなぁ」 「眠れない」という点に於いてビクトールの言葉が当たってしまったので何となく悔しい。 寝付きが悪い方だとは思わない。悩み事があるときならともかく、環境が変わったぐらいで眠れなくなるわけないのに。 夜風にあたっていたら、余計に頭が冴えてしまった。これはもう寝るのを諦めるしかないかな、と思う。 それでも明日やらなければいけないことを考えると―――ここはなんとか寝た方がいい、という結論しかでない。 「あいつ、寝酒でも持ってないかな……」 晩飯用、と一本のワインを荷物から取り出したビクトールを思い出して、俺は窓を閉めてから部屋を出た。 シン…とした建物中を、なるべく足音をたてないようにそっと歩く。まあ、多少音を立ててもビクトールが寝ているのだとしたら、あいつ自身のいびきの音で足音なんて聞こえないとは思ったが。 執務室の前を横切り、俺が使っている部屋と開き方まで対称的な扉をノックしようとして―――俺は手を止めた。 扉越しにいびきが相変わらず聞こえてくる。どうやら爆睡中のようだ。 アイツも疲れているんだろうな、と思い、俺はノックを止めて、そっと扉を開いた。 補修されたばかりの扉は音を立てることなく、静かに開かれる。 頭だけ部屋の中につっこんで見てみると、月明かりの中、ベッドの上に毛布を体に巻き付けてビクトールが眠っているのが見えた。 「――邪魔するぜ」 こっそりと呟いて、俺はするりと部屋の中に身を滑り込ませた。後ろ手で静かに扉を閉める。 そして、ビクトールの荷物が無造作に置かれている机に近づき、ひょいっと中を覗いた。 やっぱり、一本だけ持ってくるわけはないと思ったんだよな。赤ワインが後二本、袋の中につっこまれているのを見つけて、俺はにっこり笑った。 「一本だけ貰ってくぜ、ビクトール」 そっと囁いて、断りを入れる。まあ、聞こえてはいないだろうが。 ついでに、コルク抜きも借りようと思って再度荷物をのぞこうとしたとき――― 「なにやってんだよ………フリック………」 寝起きでかすれたビクトールの声が背後から聞こえ、俺は危うく瓶を落としそうになった。 「ビ、ビクトール、もしかして起こしちまったか?」 そう言えばいびきがやんでいたことに、俺は遅まきながら気付いた。 というか、いびきを聞き慣れていたので気に障ることが無く、全く意識していなかったから気付かなかったのだ。大馬鹿である。 「悪いな、ビクトール、ちょっと俺寝付けなくって、それで寝酒でも貰おうと………」 なんでこんな言い訳めいたことを言ってるんだ、と俺は内心冷静に思いながら、ビクトールの方を振り向き――― 「―――寝言?」 ビクトールはしっかり目を閉じていた。いびきはかいてなかったが。 「なんだ、寝ぼけてたのかよ。びっくりしたなぁ………」 タイムリーなツッコミだっただけに、かなり動揺してしまった。俺はふぅっと溜息をついて、気を取り直した。 とりあえず、とっととコルク抜きだけ見つけて部屋に戻ろう、と思って再度机に体を向け直したとき。 ふっと、腕を熱い何かが触れた、と思ったら。 「うわっ!?」 ぐいっと後ろに引っ張られて、俺はバランスを崩した。倒れ込んだ先で、何か温かいものに体を包まれる。 それが、ビクトールの胸だ、と気付いたのは五秒ほど呆然とした後だった。 「おい、ちょっと、ビクトール?」 あわてて俺はビクトールを振り向こうと思ったが、背後からがっちと両手で抱き込まれていて身動きがとれない。 「……うるせぇよ、ちったぁ大人しくしな……」 じたばたもがいてると、ちょうど耳元の当たりでビクトールがぼそりと呟いた。 そんなとこで喋るな馬鹿者!と叫びそうになるのを必死にこらえて、俺は「手ぇ離せよ」と言った。 「……寝酒がなきゃ眠れねぇなんて、馬鹿なこといってんなよ……こーしててやるからとっとと寝ちまえ……」 そう呟いたかと思ったら。数瞬後には、すーすー、という規則正しい寝息が聞こえてきた。 「なんだよ、やっぱりお前寝ぼけてんじゃないのか……?」 俺は顔が熱くなるのを感じながら、こっそりと呟いた。 小さい頃。まだ両親が健在で、甘えていた頃。 夜、寝れなくて両親のベッドにもぐりこみ、「まったく寂しがりなんだから」と苦笑する母親に抱きしめられて眠ったことを思い出す。 「子供じゃないんだから、『眠れないなら抱きしめてやる』、なんてことしないでくれよ。恥ずかしいだろ……?」 口ではそんなことを言いながら、俺はビクトールの腕の中がひどく心地よく感じられた。 そう言えば、トランからジョウストンへ入るために砂漠越えをしていた頃、夜の寒さをしのぐために、よくこうやってビクトールは俺を抱きしめて寝ていたっけ……。 ビクトールの寝相の悪さには泣かされたこともあったが、それよりもひどく安らいだ気分になれたことを思い出した。 不思議と落ち着けるこの男の胸の中、俺はあの旅の時のようにそっと目を閉じて体の力を抜いた。 規則正しく響いてくる心臓の音と。首筋に当たる温かな寝息が心地よくて。 寝る前のビクトールの言葉が思い出される。 『言ってくれるじゃねえか、フリック。一人じゃ寂しくて眠れない、とか思ってもしらねぇぞー?』 苦笑しながら、俺は手に握っていたワインの瓶を床に転がし、空いた手のひらでそっとビクトールの腕に触れた。 悔しいけれど、認めよう。いつも一緒にいたから。ビクトールが隣にいて眠っているのが普通になってしまっていたのだということを。 「でも、寂しいわけじゃないからな……」 ただ、眠れない夜はこうすればいいのだ。 一人で悶々と羊を数えるのではなく。 一人で酒を飲んでごまかすのでもなく。 これぐらい、甘えてもいいかな、と思った。 「だって、お前が、俺を引き止めたんだからな……」 本人は寝ぼけていただけかも知れないが。この安らぎを教えてしまった罰だ。 「『寂しかったのか?』なんて、言ったら、怒るから、な……」 そうして俺は暖かさに包まれたまま、静かに眠りに落ちていった――― fin... |
■あとがき■ |