■キリ番 4321/かず様■
Lovin' the Land
「ビクトールさん!」 唐突に大声で名前を呼ばれ、ビクトールは思わず飲んでいたビールを噴出しそうになった。 「な、なんだ!?」 驚いて声の主を探す。どうやら酒場の入り口のほうからだった気が…とそちらに目をやるが、誰もいない。 「………おい、」 「あ?なんだ、ハンフリー」 大声に少しも動じずに、目の前で黙々とジョッキを傾けていたハンフリーが、その手を止めてビクトールの後ろにちらりと目を向けた。それにつられて背後を見て、思わずビクトールは立ち上がった。 「な、なんだ、お前!」 ビクトールのすぐ後ろに、一人の少年が立っていた。まだ12、3くらいだろうか。薄茶色の髪に、綺麗な青い瞳をした少年だ。 その少年が、妙にきらきらした瞳で、ビクトールを見つめていたのである。 「ビクトールさん、僕、ビクトールさんにお話があるんですけど!」 その言葉を聞き、ようやく先ほど大声で自分の名前を呼んだのがこの少年だということにビクトールは気づいた。 「―――話なら聞くから、そんな大声あげないでくれねぇか?」 まだ声変わりをしていないのだろうか、男としては高めの声が耳元間近で炸裂すると、なかなか耳に厳しい。顔をしかめながらそう言うと、「あ、すみません」と素直に謝る。 改めてその少年をまじまじと見て、ビクトールは彼がこの城の住人ではないことに気がついた。 城内広し、人多し、とはいえ、子供はそんなに多くない。そして、相棒共々子供たちの面倒を見る―――というか遊び相手になることの多いビクトールが見たことがない子供は、おそらくいないだろう。 「お前、新入りか?」 ビクトールの言葉に、少年は頷いた。 「えっと、新入りと言っても、もうここに来て一月にはなるんですけど―――」 「ああ、そうか」 納得してビクトールは頷いた。最近、少しだけ平和な時期が続いている。その合間に、と盟主の交易ツアーに駆り出されていたのでここ一月ほどビクトールはほとんど城にいなかった。その時期に来た子供ならば見覚えがなくても当然かもしれない。 とりあえずまあ座れ、と促すと、元気よく「はい!」と返事をして、ビクトールとハンフリーの間の椅子に座った。 「で、話ってのはなんだ?」 いつもならばたいてい共にここでだれている(というと本人は立腹するだろうが)相棒の指定席に座った少年に問い掛ける。 「えっとですね…あの、」 ビクトールの顔を見たかと思えば、落ちつかなそうに視線を逸らして言いよどむ少年に、ビクトールは「なんだ?」と首を捻る。 「ここで言いにくのなら、場所変えるけどよ」 いくら昼間とはいえ、ここは酒場だ。子供はあまり立ち入らない場所である。それで物怖じしているのかと思い、ビクトールが立ち上がりかけると、少年は慌てて言った。 「いえっ!ここで、大丈夫です!」 「―――――っ、だ、からよ、その声はやめろって………」 再度大きな声で叫ばれて、ビクトールは耳をふさいで注意すると、少年はしゅんとした調子で「ごめんなさい」と謝った。 「ああもう、謝らなくていいからよ。話ってのはなんなんだ?」 一向に進まない話をなんとか先へいかせようとビクトールは椅子にどっかり座りなおして少年に向かい合った。 「いくらでも話を聞くぞ」というビクトールの態度に、ようやく落ち着いたのか少年が「あのですね、」と切り出した。 「初対面で、いきなりこんなことを言い出すと、生意気だとか無礼だとか思うかもしれないんですけど、」 なんだか大層な話のようで、ビクトールは内心「なんなんだ、コイツ」と思いつつも黙って聞いていた。 「でも、今の状況とか僕がこの一ヶ月で聞いた話とか、実際に見たことをあわせていろいろ考えてみるとやっぱりビクトールさんしかいないって思うので思い切ってお願いにきました!」 「…あ、ああ。で、なんだ?」 あまりにも一気に喋られて、一瞬少年の言葉についていけなくなったビクトールだった。おまけに、何を言いたいのかもよくわからない。「お願い」ということだけはかろうじてわかったが。 そんなビクトールに気付く様子もなく、少年はがしっとビクトールの手を取った。 「おいおいおい?」 子供特有の柔らかい手でいきなり自分の手を握り締められ、ビクトールはますます訳がわからなくなった。 助けを求めるようにハンフリーに目をやるが、相変わらず我関せずといった調子で酒を飲んでいる。 頼みの綱がなくて、ビクトールは結局少年に視線を戻した。 一番最初に声をかけてきたときのような、きらきらした目で少年はビクトールを見上げて言った。 「僕を、ビクトールさんの弟子にして下さい!」 「…………………………はぁ!?」 唐突な少年の願いに、ビクトールは素っ頓狂な声を上げた。 「……で、結局弟子にしてしまったのか?」 生真面目な顔をしてそう言ってはいるが、肩がかすかに震えている。 苦虫を潰したような顔で、ビクトールは言った。 「……笑いたきゃ笑えよ、オッサン」 壁に寄りかかって座り込んでいたビクトールはそう言って、同じく壁に寄りかかって立つゲオルグを睨み上げた。 ここは、鍛錬場。あの「弟子にしてくれ」発言の後、ビクトールが直行した場所だった。 ゲオルグが鍛錬場にいるのは非常に珍しいことだった。 この男がビクトールと同様、「訓練はあくまで訓練に過ぎない。一番の訓練は実戦だ」という大義名分のもと、面倒な事を避けているのを知っているだけに、最初その姿が目に入ったときは心底驚いた。 だが、よくよく見れば、それも意外なことではないとすぐに気がついた。 なぜなら、ゲオルグが剣を向けていた相手が、フリックだったからだ。 「俺は弟子なんざ、とる気もねぇし、とったところで何もできねぇって言ったんだけどよ、」 このオッサン、相変わらずフリックに構うよなぁ、とビクトールは思いながらも別の言葉を口にした。 「どうしても、の一点張りで話が終わらねぇから、とりあえず腕を見てからってことにしたのさ」 「ほう。で、誰でもいいから相手をさせて、なんとか上手く煙に巻こうと思ったわけだ」 的確に思惑を言い当てられ、ビクトールは眉間にしわを寄せた。 今、鍛錬場の真中で剣を構えているのは、先ほどの少年。そして、それに向かい合って自然体で立つのは、先ほどまでゲオルグと剣を交えていたフリックだった。 「ったく、あいつがここにいるなんて予想外だぜ」 てっきり青騎士団員を鍛え中の真面目一直線、手を抜くことを知らないマイクロトフか、カスミに特訓をつけてもらっている負けず嫌いのサスケか、そのあたりがいると思っていた。 その二人ならば、どちらを相手に選んでも、手を抜いて少年を勝たせるなどということをしないと踏んでいたのだが。 「あいつ、子供には甘いからなぁ」 以前、傭兵隊の砦においても子供の腕試し相手になり、上手いこと相手を容認してしまった経歴を持つフリックだ。相手の腕を見る目は確かなのだが、子供に対してはとことん甘い。あの少年が「どうしても」と訴えれば、あっさり認めてしまいそうであった。 「……中途半端にいい腕してるな、あの坊主」 言外に、「鍛えれば伸びる」という意味合いを込めてゲオルグが言う。ビクトールもそれに気付いていたので、ますます顔をしかめた。 剣を打ち込んでいる少年の相手をしながら、フリックの表情は非常に楽しそうだった。それは、フリック自身も「育てがいがあるな」と思っている証拠だ。 「やべぇな、あいつから俺に弟子にしろとか勧めそうだぜ」 勘弁してくれ、と頭を抱えていると、ゲオルグが不思議そうな顔をした。 「そういえば、そもそもなんでお前さんのところに弟子入りしてきたんだ、あの坊やは?」 「……………それが、よくわからねぇんだよ」 そもそもあの少年は、ビクトールの強さに憧れて何が何でもこの人の弟子になる、と決心したから弟子にしてくれ、の一点張りなのだ。 よくよく考えてみれば、ビクトールと少年は初対面。そして、この一月ほとんど城を空けていたビクトールの腕を、一体何処で見たのやら、と不思議に思う。 しかしそういったことを追求する間もなく、少年に懇願されつづけていたため、結局この期に及んでそれを聞き出せなかったのだ。 「あ、そーいや名前も聞いてねぇな」 「おいおい」 「聞く暇なかったんだもんよ」 「……それでもその場で即座に断れなかったのは、あの坊やが似てるからかな?」 誰に、とは言わなかったが、すぐにビクトールはゲオルグが誰を指しているのかわかった。 「それも、あるな」 ビクトール自身も、最初に見たとき、一瞬感じたのだ。 薄茶色の髪に、青い瞳。前髪だけが、もっと抜けた色をしていて、そしてもっと瞳が深い色ならば、その少年はフリックの子供の頃はこんな感じだったのでは、と思わせる容貌だった。 つるみはじめてもう5年以上になる相棒に似た少年に懇願され、どうも断りづらくなってしまったのは否めなかった。 「さすがのお前さんも、相棒と子供には弱いねぇ」 呆れた様子のゲオルグに、肩をすくめて返したビクトールは、なんとか上手く相棒があの少年を丸め込んでくれないものか、という期待を込めて、剣をあわせる二人を見守るしかなかった。 そして、その時はあっさりと訪れた。 フリックと少年が何事か言葉を交した。そして、すっとフリックの表情が無くなる。なにごとだろう、そうビクトールが思った次の瞬間。 今まで受けに回りつづけていたフリックが、少年の持つ木刀を自身の持つ左手の木刀で受けたその勢いで、はじいたのだ。 そして、空中を舞い、落ちてくる少年の木刀を右手で掴み、流れるような動きで、呆気にとられた少年の目の前に突きつけた。 そのすべてが、あっという間に行われた。 身動ぎもしない少年の頭を軽く叩き、フリックはビクトールのほうに向かってきた。一瞬、その視線がビクトールへ向けられたがすぐに逸らされた。 腰を上げ、ビクトールは驚きを隠せないままフリックに言った。 「どうしたよ。お前、」 珍しくも子供相手に容赦しなかったフリックに、ビクトールがそう言うと、何事も無かったかのようにビクトールへ視線を戻した。そして、形のいい眉をひょいと跳ね上げてフリックは答えた。 「別に」 それだけ答えて、そのままビクトールの横を通り抜けて鍛錬場から出て行ってしまう。 「おいおい、なんだよ一体」 遠ざかっていく青いマントに向かってビクトールは言うが、フリックはひらひらと片手を振ってそのまま振り返ることなく、回廊を曲がっていってしまった。 「……なんなんだよ、一体」 呆然と呟くと、隣りにいたゲオルグが「あの坊やに聞いたらどうだ?」と指を指した。 その言葉に、中を振り返れば、少年がとぼとぼとこちらに向かって歩いてくるところだった。 「おい。……あのなあ、そんなにしょげんなよ」 問いただそうと思って口を開いたビクトールだったが、あまりの落胆振りに、思わず苦笑しながら少年の頭を乱暴に撫でた。 「別に、お前がダメだってんじゃなくて、そもそも俺は誰も弟子に取るつもりはないんだよ」 「だったら最初から断ってやれよ…」 ぼそりと背後から呟かれた言葉に、「うるさい」と唸り、再度少年に目を戻す。 「でもまあ、お前素質はあるから、鍛えるのはいいと思うぞ。頼めば訓練に加えてもらえるかもしれねぇし―――」 「いえ、いいんです。もう」 きっぱりとした口調でビクトールの言葉を遮り、少年は顔を上げた。その表情は、妙に吹っ切れた感じだった。 「いくら強くなっても、あの人にはきっと敵わない。だって、ビクトールさんの相棒の座を、譲る気はないって断言されちゃったし、」 「え」 予想もしていなかった言葉を聞き、ビクトールは一瞬耳を疑った。俺の相棒の座を譲る気はない?なんだそれは。 「相棒の座を譲る気はない、か?めずらしいもんだな。坊やがそんなこと言うとは」 ヒュウ、と口笛を吹いたゲオルグの言葉に、ようやくビクトールは自分が聞いた言葉が間違いではないことを実感した。 同時に、疑問が浮かぶ。なぜ、そんなことを、という思いだ。 正直だが、頑固なフリックだ。そして何より、自分の考えていることを口にするのが苦手なフリックだ。 それがどうして、あんな小さな子供に、なぜそういう答えを返したのか、その理由がどうしても聞きたかった。 ただ、本当に相棒を譲りたくないという思いだけからならば、あんなふうにそっけなく立ち去ったりはしない。 短くない付き合いの中で、それくらいのことはビクトールにはわかる。 すぐさま踵を返し、もうすでに影も形も見えなくなったフリックを追い始めた。 「お前さんも、まあ相手が悪かったと思ってあきらめるんだな」 背後で少年を慰めているのか、そんなゲオルグの言葉が聞こえて、ビクトールは立ち止まって振り返った。 「おっさん、」 もうそう呼ばれなれたか、自然にゲオルグが顔をこちらに向けてくる。それに、にかっと笑ってビクトールは手を振った。 「そいつのこと、後は頼むな」 言外に、フリックの代わりにそっちに構ってくれ、という意味合いを込めれば、人の機微に聡いゲオルグは、むっとした顔で「馬鹿か、お前は」と怒鳴る。 それに余裕綽々の笑みを向け、ビクトールは本格的に走り出した。目指す場所は、決まっていた。 時は少し遡る。 「あーあ、大人げないこと、したなぁ……」 ほとほと困った、という顔で、フリックはため息をついた。 お気に入りの場所の1つ、本拠地の屋上バルコニー…よりもさらに上。 バルコニーの屋根に座り込んで、フリックは空を見上げていた。 大人げないこと、というのは先ほどの少年との手合わせのことだ。 ビクトールと違い、フリックはその少年のことを知っていた。この城に来たのは、1ヶ月ほど前。グリンヒルから来たという少年は、この城にくるなり、ビクトールを訪ねてきたのだ。 その時、ビクトールはたまたまフェイのお供……もとい、交易の手伝いということで長く不在にしていた。そこで、フリックがそれを説明したのだ。そのとき、どんな用かも聞いた。 少年は、グリンヒルのあの戦いで、ビクトールの世話になったらしい。獣の紋章の眷属である不気味な狼が、グリンヒルを襲ったあの時だ。 その時、どうやらビクトールに危ないところを助けられたとのこと。そこで、お礼に来たというわけだ。 そもそも少年は両親が他界しており、親戚の家に世話になっていたが、どうしてもビクトールに会いたくてグリンヒルから遠路はるばるやってきたと言う。 その時は、ただお礼を言いたい、その一点張りで、帰ってきたらまた会いに来ると言い残して去っていった。 そして、気がついたら木刀を持ってフリックの前に立っていた。 『こいつの腕、見てやってくれよ』 苦虫を潰したような表情のビクトールから少年に目を移せば、青い瞳に負けず嫌いそうな光が宿っていた。 正直、何がどうしてこうなったのかもわからないまま木刀を受け取ったフリックだったが、少年の構えを見て、少しだけ驚いた。 『けっこう、剣を使い慣れてるな』 実戦向けとはいえないが、少なくともきちんとした剣術を身につけているその構えに、グリンヒルはこんなことまで教えてるのかな、と素朴な疑問を持つ。 しかし、その疑問は、少年の言葉によって否定された。 『だって、そうじゃないとあなたに勝てないでしょう?』 勝って、ビクトールさんの弟子になって、そして相棒になるんだ。そう、少年は言い切った。 これにはフリックも、思わず唖然としてしまった。 『……聞いてもいいか?どうして、ビクトールの相棒になりたいんだ?』 あんなのの相棒になったら苦労が増えるだけだと思うが…と思いつつ言えば、少年はあっさりと答えた。 『ビクトールさんは、強いから。あの人なら、僕を置いて死ぬようなことは、ないって思えるから』 もう、置いていかれるのは嫌だから。そう続けた少年に、フリックは眉をひそめた。 誰においていかれたのかは、わからない。おそらく親のことを言っているのだとは思う。この年で、一番大切な人に、先に逝かれて、置いていかれて―――。その辛さは、わからないでもない。けれど。 『それじゃ、お前に相棒の座を譲れないな』 置いていかれる辛さを知っていて、それでも自分を置いていかないだろう人といたいと望むのは、一番ずるい。 自らが二度とその辛さを経験しない為に、人にその辛さを押し付ける。そういうことだ。 それを我侭だと言い切るのは、簡単だった。しかし、まだこの少年は幼いのだ。多分、フリックの半分も生きていないのだ。 なぜそれが我侭か、理屈ではいくらでも諭せるだろうが、それを身にしみてわかるには、まだ早いだろう。 だから、今はビクトールの側に、いさせたくなかった。その我侭を、我侭と認識できるまでは。 『悪いが、あきらめてくれ』 そう言って、少年の剣を本気ではじいた。今までとは全く違う力を受け、少年はあっさり木刀から手を離す。その驚いた顔を、見据えたまま、頭上に手を上げ、落ちてくる木刀を掴む。 そして、それを少年の喉もとに突きつけた。 その時の少年の眼差しが、脳裏から消え去らない。呆然として木刀の先を見て、それからフリックを見た。 何が起こったかわからない、そんな表情を向けられ、フリックは淡々と言った。 『おわり、だな』 擦れ違いざまに木刀を少年の手に渡し、ぽんっと軽く頭を叩く。 視線を前へ向ければ、意外そうな表情でこちらをぽかんと見つめるビクトールと目が合い、思わず視線を逸らした―――。 「まだ、12、3くらいのガキにきついことしたかな…」 立ち去り際の、泣きそうな表情を思い出してフリックは自嘲した。そんな綺麗事を言ってどうなるという思いが強いが。 きっと、何度あの少年がやってきたとしても、少年が考えを改めない限りフリックは負けてやる気はなかった。 この屋上に立つと思い出す。 まだ、この場所が廃村にすぎなかった時に登った鐘撞堂を。そこから見た、白い十字架に覆われた大地を。 そして、その場で涙を流さずに慟哭した男を――― 仇を滅ぼしたからといって、過去に起こったことを変えられるはずもなく、そうして未だに自分が誰一人として救えなかったことを悔やむ気持ちを心の奥底に隠し、ビクトールは笑ってこの地に立った。多くの想いが染み付いた、この大地に。 そんな男に、これ以上重荷を背負わせたくなかった。 それが、自分の勝手なエゴだとしても。 下から、階段を登ってくる足音が聞こえてくる。 おそらく、ビクトールだろう。そう思って、フリックは立ち上がり、バルコニーに飛び降りた。 そして、一度ぱんっ!と軽く頬を叩く。 「こんな勝手なおせっかい、知られなくてもいいもんだからな」 ひっそりと呟き、振り返る。そこには思ったとおり、少し困った表情をしたビクトールが立っていた。 それに、フリックはいつものように方眉を上げ、「なんだ?」と問い掛ける。 一瞬だけ、見たことのないような表情をした。そう感じて戸惑ったビクトールだったが、「なんだ?」と問い掛けてきたフリックはもういつもと同じ表情で、なぜ戸惑いを感じたのかわからなくなり、あいまいに笑った。 「いや、なんだかめずらしくお子様に厳しくしてたからよ。驚いてな」 どちらかといえば、それよりも「相棒を譲らない」と言ってのけたフリックに驚いたのだが。 そちらは口に出さずに、心の中だけで思う。それを知ってか知らずか、フリックは軽く肩をすくめた。 「―――そんなに俺は、子供に甘いわけじゃないぞ」 「まあ、確かにしつけには厳しいよなぁ、お前」 どうやら素直に話しそうにないフリックの様子に、ビクトールは内心でこっそりため息をついた。 そのうち、気が向けば話してくれるかもしれない。そう思うことにした。 フリックの横に立ち、下を見下ろせば、赤い煉瓦屋根と綺麗に整えられた石畳。そして芝生の上を子供たちが駆け回っているのが小さく見える。 「――― ひとが、増えたよなあ」 いつのまにこの城はこんなに大きくなったのだろう。不意にそう思って呟くと、「そうだな、」とフリックも頷いた。 「前の時とは違って、陸続きのところにあるからな。この城は。みんな来やすいんだろう」 「まあ、な。あそこは海に囲まれて守るには楽な場所だったけどよ、俺は今のほうが好きだな」 「―――好き、か?この……城が」 一瞬つまったフリックに、ビクトールはきょとんとして右隣に立つフリックを見た。 フリックは、真直ぐ下を見ていた。向けられた視線はどこか厳しい。 「おう。好きだぜ」 その思惑がどこにあるのかわからず、ビクトールは思ったままのことを口にした。その言葉に、フリックはなぜか泣きそうな顔をして、「そうか、」と呟いた。 「―――フリック?」 一体どうしたのだろう。常に無いフリックの様子に、ビクトールは眉を寄せた。 「なんか、あったのか?」 「―――いや。なにも」 素直に答えるわけがないとは思っていたが、ビクトールは予想通りの返答に肩をすくめた。 そこで、ふと思い出した。この場所を、フリックとこうして見下ろしたことがあったな、と。 あの時はこんなに平和な光景ではなかったが―――と思ったところで、はたと気付いた。 「フリック、お前―――」 もしかして、ここであった惨劇を気にしているのか。そう続けようとしたとき。 「おーい、」 下から聞きなれた声が飛んできた。それに、バルコニーから身を乗り出し真下をのぞくと、二つ下のフロアにあるシュウの部屋の窓から、フェイが身を乗り出して手を振っている。 「よお、フェイ!軍師さまの部屋で会議中か?」 それに手を振って答えれば、にっこりと笑ってフェイが言った。 「その会議に、ビクトールさんも参加してほしいってシュウさんが!フリックさんにも、声、かけてくださいね!」 奥のほうから「フェイ殿!危ないですから、早く中へ!!」という怒鳴り声が飛んできて、フェイは首をすくめて中へ引っ込んだ。 「シュウのやつも、過保護だなあ…」 思わずそんな感想をこぼして、ビクトールはフリックに笑いかけた。 「だとよ。行くぜ、フリック」 「ああ、」 いつもの調子で軽く頷くフリックに、ビクトールは手を伸ばしてその頭に触れた。 「な、なんだよ?」 動揺して目を見張るフリックに構わず、ビクトールはその頭をぐしゃぐしゃとかき回す。 「わっっ!なにするんだよっ!」 顔を真っ赤にして怒鳴るフリックに、ビクトールは笑った。 「ったく、お前は気にしすぎなんだよ。ここは、ノースウィンドウであって、ノースウィンドウじゃない。誰もいない廃村は、にぎやかなやつらの手によって、新しく生まれ変わったんだよ」 だから、きっとこの地に染み付いた嘆きはいつか消えていくはずだ。新しく来た人々の、幸せによって。 ビクトールがそう言うと、フリックは驚いたように目を見開いた。そして、ゆっくりとその表情を崩し、微笑む。 「――― お前が、そういうのならば、そうなんだろうな」 そう言って、フリックは鮮やかな笑みを残して先に歩き出した。 「シュウが待ってるんだろ。お小言は御免だ。さっさと行くぞ」 そして振り返らずに、フリックは階下へ向かった。 「あ、ああ、」 相棒のあまりにも鮮やかな笑みに、ビクトールは一瞬反応が遅れて返事を返した。 やっぱり自分の勝手な思い込みだったのだろう。フリックは階段を下りながら苦笑した。 重荷を背負わせたくない、そう思っていたが、重荷を背負っているはずの相棒は、しっかり前を向いて歩いている。 「俺とは違って、ちゃんと前向きだよな」 未だ、永遠にこの人だけと思った女を守りきれなかったことを悔やみ、かの人が命を落とした地になかなか足を向けられない自分とは違う。 ビクトールのように、生まれ変わった思い出の地を、慈しむことができたらいいのに。 今更ながらに、自分の相棒のすごさを見せ付けられたようで、少しだけ悔しかった。 「どうした?」 思わず足を止めてしまったフリックに、後ろから付いて来ていたビクトールも足を止めて聞いてくる。 振り返ると、いつもとかわらない、どこかふてぶてしい笑顔。 何もいわずに見つめていたら、不意にビクトールがふっと笑って、「ダメだぜ、フリック」と言う。 「は?」 何が駄目なんだ、と訝しく思い聞き返すと、ビクトールは肩をすくめてにやりとした。 「いくら俺がいい男だからって、見惚れてんじゃねぇぜうごわっ!!!」 どかっという鈍い音がして、ビクトールが階段に伸びた。 ふーっと拳に息を吹きかけ、フリックは冷たい視線を向ける。 「この馬鹿熊が。ボケたことぬかしてんじゃねぇよ」 「だからって、殴るか普通………」 階段の角にぶつけたのか、頭を押さえながら涙目でビクトールが訴えてくる。 「当たり前だ。さっさと行くぞ」 踵を返し、フリックはすたすたと歩いていった。 「フリック〜」 背後から飛んでくる情けない声に、一瞬でもこの男をすごいと思った自分が少しだけ哀しくなったフリックだった―――― fin... |
■あとがき■ |