■キリ番 19000/雅良様■
ふ さ わ し い 場 所
常日頃、自分の運はあまりよくない―――他人に言わせれば「最悪」―――という自覚はそれなりにあったのだが。 「まいったな……」 何もこんなときまでその運が発揮されなくてもいいのに、とフリックはぼやいた。その視線の先には、息絶えた狼たちが静かに転がっている。 単独で国境を越えて隣国へ偵察に行った帰り道。燕北の峠を半ば過ぎた辺りで狼の群れに襲われたのだ。 一頭一頭の力はたいしたことがないのだが、十数頭の群れになるとかなり厄介な敵である。逃げるにしても数を減らさなければ、とフリックは背後を取られないように崖を背に戦っていたのだが―――それが逆に仇になった。 どうやら最近の雨で地盤が緩んでいたらしく、突然足場にしていた部分が崩れ落ちてしまったのである。 落下を避ける為に身を反らした結果、無様に崖から転げ落ちるという事態は避けれらたが、そのかわりに飛びかかってきた一頭の狼の爪に、右の太股を深く抉り取られてしまった。 激しい激痛を堪えてなんとか残りを倒し、止血をしたのだが―――右の太股にきつく縛り付けたバンダナは、すでにどす黒い色に染まっていた。ズボンが黒いためはっきりとは見えないが、かなりの出血量である。 他の動物―――虎などの肉食動物が血に引かれてやってくる前に移動したほうがいいのはわかっていた。しかし、今のフリックは歩くどころか立ち上がることさえ厳しかった。 「畜生、ついてないぜ」 寄りかかった木の幹に体重を預け、空を見上げる。さらに運の悪いことに、峠に入るまでは綺麗に晴れていた空に、黒い雲がどんどんと広がっていた。しばらくしたら、雨が降り出すだろう。 この出血量に、さらに雨で体温が奪われるとなると、かなりまずい。 「仕方ない、か」 ふぅ、と溜息をつき剣帯から鞘を外し、握ったままの剣を収める。そして、それを杖代わりにしてぐい、と立ち上がった。 「―――――っ!」 途端に激痛が走り抜け、背中を預けていた木に寄りかかる。上がってしまった息を整えるように、深呼吸を繰り返しながら、額に滲み出た汗を乱雑に拭った。 しばらくして息が整うと、フリックはそのまま瞳を閉じた。極力痛みから意識を逸らすように握りしめた剣に意識を集中してからゆっくりと瞳を開く。 傷ついた右足の支えになるように剣を右手に持ち、フリックはゆっくりと足を踏み出した。 一歩一歩、足を進めるごとに痛みが頭に響く。ここから峠の入り口にある見張り番屋までは到底無理だが、少し先の道を左に折れたところにある洞窟までならばなんとかもつだろう。 せめて雨の間だけ、そこで身体を休めようと、フリックはなるべく痛みを意識しないようにしながら前へ前へと進んだ。 その洞窟は、何度か峠を行き来している時にたまたま見つけた場所だった。 入り口の側には大きな木が立っており、丁度入り口を隠すように葉の生い茂った枝が伸びているのだ。 天井は、フリックが立ってもなお余るほど高く、大人が四、五人座り込めるくらいの広さがある。 何かの時に役に立つかもな、とその時は同行していた相棒と笑って話していたが、まさか自分がこんな状態で使用する羽目になるとは思わなかった。 ようやく辿りついた洞窟の中、ゆっくりと腰を下ろして壁に背中を預けて深く溜息をついたフリックは、そんなことを考えていた。 足はすでに痛みを通り越して麻痺したかのようにだるさがまとわりついている。こればかりは運良く、洞窟にたどり着くまで雨は降り出さなかったので、体温の低下は防げたが、逆に足の熱のせいで頭にもやがかかったかのようにぼんやりとしている。 薬草はあとひとつ。これを使ってしばらくここで休んで体力を回復させないと―――。 重い腕で薬草を物入れから取り出し、口に含む。何度か咀嚼し、水で流し込んだ。それだけで重労働をした後のように倦怠感がまとわりつく。 なるべく外気を遮断するようにマントの前を合わせ、フリックは瞳を閉じた。 「モンスターが、近づいてこなければ、いいんだが、な……」 自分の運の悪さを考えると、それも無謀な願いかもしれないが、と口元に小さく笑みを浮かべ―――そのまま意識を失うようにフリックは眠りについた。 「ああ畜生!突然降り出しやがって!」 愚痴を怒鳴りつつ、少しでも雨宿りが出来る場所を探しながら男は走っていた。 当初の予定ではこの峠を越えて宿屋に入っている時間だった。それなのに何故自分はこの山道を走っているのだろう。しかも、雨に濡れながら。 「ったく、普段は真面目に見張りなんざしていないくせになあ!」 峠の入り口に見張り番屋はあるが、実は兵士達がいつも外に立って見張りをしているというわけではないことを、この峠をよく使う男は知っていた。 身分的に正当な方法ではミューズ側の関所を通り抜けられないこともあり、その杜撰な国境警備を重宝していたというのに、こんな日に限ってしっかりと兵士が見張りに立っていたのだ。 おかげでこっそりと通過するためにタイミングを見計らって待っていたせいで、大分時間を取られてしまった。 「ああ、ついてないなっ!」 雨はざあざあと本降りになってきた。髪も服もすでにびしょ濡れだ。これ以上身体を冷やす前に、少しでも雨を凌げる場所を探さないと―――そう考えながら、辺りに忙しなく視線を向けていた男は、視界の端に雨宿りに適していそうな大きな木を見つけた。 峠を抜ける道からは逸れてしまうが、この際しょうがない。普段は足を向けたことのない方へと男はすぐさま方向を変えた。 近づいてみれば、なかなかいい枝振りの木である事がわかる。これならば雨宿りくらい大丈夫だろう、そう思ってふと視線を横に向け―――男は足を止めた。 その木の枝に隠れるように、洞窟が口を開けていた。しかも。 「おいおい」 呆れたように呟く男の視線の先には、青いマントに身を包み、しっかりと瞼を閉ざした青年がいた。 それが誰だか、男は知っていた。ミューズの雇った傭兵隊の柱のひとり。青きマントを翻し、剣と紋章でもって戦場を駆け抜ける――― 「青雷……」 濡れて邪魔になる前髪を乱雑にかきあげながら、青年の二つ名を呟き、男は呆れたような色を赤い瞳に浮かべた。 「なんでこんなところで寝てるんだ?」 その声に、ようやく気付いたのか、青年は瞼を震わせ、ゆっくりと瞳を開いた。いつも身に付けているバンダナがないせいか、長い前髪に半ば隠された晴れた日の空色の瞳が、ぼんやりと男に向けられる。数秒の間を置き、それが誰だか理解したのか、驚きの表情を浮かべて壁に立てかけてある剣を鞘ごと掴んで身構えた。 「なんでこんなところにお前がいる―――シード?」 警戒した気配を身に纏いつつ、青雷のフリックが問いかけた言葉に、男―――シードは肩をすくめた。 「雨宿り」 飄々とした答えに、フリックは目を丸く見開き、それからがくりと肩を落として、「そ、そうか」と言った。 「とりあえず雨宿りさせろよ」と主張したシードは、フリックの返事を待たずに洞窟に入り込み、腰を下ろした。 それから濡れて重くなった外套を脱ぎ、その重さに顔を顰めつつ雑巾を絞る要領で端から水を絞り出していく。 その光景を見ていたフリックは、とりあえずこの場でシードと戦う必要はないと判断したのか、力を抜いてその場に座り込んだ。それを横目で見ていたシードは、フリックの顔色の悪さに眉を顰めた。 「……なあ、具合でも悪いのか?」 身体が濡れているようには見えないから、寒さのせいで顔色が悪いというわけではないだろう、と言うと、フリックは視線を逸らした。 「別に」 短いその答えに、シードは目を細める。 いくら眠っていたからといって、フリックが近づくシードの気配に気付いていなかった。こちらに殺気がなかったとはいえ、ひとりでいる時にそんな無防備な状態を晒す男だとは思えない。であれば、体調が悪いか、それとも――― 「怪我でもして休んでたってか?」 独り言に近いシードの言葉に、フリックはちらりと視線を向けてから、そのまま瞳を閉じてしまった。 どうやら正解だったらしい。シードは小さく肩をすくめて、外套を地面に置いた。ついでに剣帯から鞘ごと剣を引き抜き、その外套の上に放る。 がちゃり、という音に目を開いたフリックは、その光景に眉を顰めた。 「……シード?」 自ら武器を手放した自分を訝しく思っているのだろうその表情に構わず立ち上がり、フリックに近づいた。はっとして立ち上がろうとしたフリックは、その瞬間酷く顔をゆがめてガクリとその場に崩れ落ちる。 「あーあー、無理すんなって。その様子じゃ、足をやられてるんだろ?」 フリックの前に膝をつき、シードは手を伸ばした。それをフリックは右手で払いのける。まるで近づかれるのを嫌がり威嚇する野生動物のような仕草に、シードは笑った。 「脅えなくてもいいだろ?」 その言葉に、フリックは顔を真っ赤にして怒鳴った。 「な、だ、誰が脅えてるっていうんだ!」 「あんただあんた。別にこの機に乗じてあんたを殺そうとかそんなつまらんことなんざ考えてないし」 いいから大人しくしてろよ、と言うと、フリックはシードの本意を見抜こうとしてか真正面から見つめてきた。 「どういう、つもりだ?」 「どういうもこういうも……怪我人が目の前にいたら、具合を見ようっていうのは普通の行動じゃないか?」 シードの言葉に、フリックは眉間に皺を寄せた。 「敵なのに、か?」 ハイランド王国軍軍団長と都市同盟所属の傭兵隊副長。確かに、敵の位置に二人は立っていた。 「けど、今は戦場じゃない」 戦場でないところで戦ってもつまらないさ、と言うと、フリックはようやく肩の力を抜いたようだった。 「相変わらず、わけのわからないやつだな……」 酷い言い草に肩をすくめ、シードはフリックのマントを肌蹴させた。途端、中にこもっていたのだろう、血の匂いが立ち込める。 「右足、か。モンスターにでもやられたのか?」 その程度の腕前じゃないだろう、と笑いながらシードは左手を血塗れたバンダナの上に当てた。痛みにわずかに身を強張らせたフリックに「じっとしてろよ」と言って左手の甲に意識を集中させる。 脳裏に、静かな水面に一滴の雫が零れ落ちて波紋がゆっくりと広がっていく光景が浮かび上がり、紋章がその力を発動した。さざめく水面が洗うように傷口に触れてゆく。 しばらくして、紋章の光が消えた。 「傷口は、これで塞がっただろう。まあ、熱や体力ばかりはどうにもならないけれどな」 左手をフリックの足から離し、そう言うと、いつの間にか閉じていたらしい瞳をゆっくりと開けてフリックは正面からシードを見た。先ほどよりはわずかに顔色がよくなっている。この分ならば、峠を越えるのは何とかなるだろう。 ふ、と視線を緩ませ、フリックは小さく溜息をついた。それから、複雑な表情で、ぶっきらぼうに言った。 「……一応、礼は言っておく。助かった」 その言葉に、シードはにやりと笑って「どういたしまして?」と答えた。 それからしばらくして、雨は上がった。 雲間から覗く太陽の光が水溜りの表面を煌かせるのに目を細めていると、背後でばさりと音がする。 腰に剣を佩いたフリックがマントを跳ね除けた音だったようだ。しっかりと両足で立つその姿に、シードは満足そうに笑う。 「もう行くのか?」 「予定じゃ、雨が降る前には砦に着いていたはずだからな」 あまりに遅いと騒ぐ馬鹿がいる、と呟いてフリックはそこで初めて小さく微笑んだ。それは、戦場では見たことのない表情で、シードは意表をつかれて言葉を失う。だがその穏やかな笑みは一瞬で消え、次にフリックの顔に浮かんだのは、戦場で見せる力強い表情だった。 「―――次は戦場で会おう」 じゃあな、と軽く手を上げてフリックは歩き出した。歩みにあわせて翻る青いマントを見送りながら、シードは苦笑した。 「そうだな、次は戦場だ」 雨宿りの場で偶然出会うのも悪くないが、やはり自分たちが顔を合わせる場所は戦場が相応しい。 小さくなっていく青い後姿から視線を外し、シードもまた自分の在るべき場所に帰るべく歩き出した。 fin... |
■あとがき■ |