■キリ番 1750/浬様■

あ る 不 幸 な 青 年 の と あ る 一 日



人生、幸福と不幸は常に隣り合わせになっている。
そんなことをしみじみと感じる一日だった、と、とある不幸体質の青年は語ったと言う―――



「お前、明日一日休んでいいぞ」
唐突に軍師に言われて、フリックは眉をひそめた。
ミューズ方面まで足を伸ばして得てきたハイランド軍の情報をまとめた書類に目を落としたまま、シュウはこちらを見向きもしない。そのため、一瞬自分にではなく、別の誰かに言った言葉かと思ったのだが、あいにく軍師の部屋にはフリックのほかには誰もいない。
それでもフリックは、にわかにはその言葉の意味するところがわからず、首をかしげた。
「―――休みの身分と称して、クスクスあたりに侵入してこいってことか?」
暗に仕事を命じられたのかと思ってフリックがそう言うと、書類から目を上げたシュウが呆れたような眼差しでフリックを見た。
「誰がそんなことを言ってるんだ。だから、休みだ。明日一日」
「はぁ!?」
心底驚いてフリックは素っ頓狂な声を上げた。
立ってるものは親でも使え、といわんばかりの軍師の人使いの荒さを身に染みて知っているフリックである。いきなり「休み」と言われてもにわかに信じられなくて当然だろう。
しかしそのリアクションが気に入らなかったのか、シュウはむっとした表情で再び書類に目を落とした。
「別にいらんなら他の人間に回すぞ」
「いや、いらないわけじゃなくて」
焦ってシュウの言葉を否定すると、「なら問題ないだろう。早く出て行け」とそっけなく言われ、フリックはとりあえず軍師の部屋を後にした。
「……一体なにがあったんだ??」
明日、嵐でもくるんじゃなかろうか、と呟きながらフリックは自室に向かって歩き出した。



翌日は、快晴だった。



「うーん、これだけ天気がいいと、部屋でごろごろしてるのももったいないよなあ」
仕事が入っていないにもかかわらず、朝早くに目が覚めてしまったフリックは、窓から外を見ながらそう呟いた。
いつもならば、仕事がない前の晩はビクトールやハンフリーらとレオナの酒場で遅くまで飲んでいることが多く、たいてい昼頃目が覚めて、だらだらしていると休日が終了していることが多い。
だが今回は常連客がそろいもそろって仕事に出ており、昨晩は早めにベッドに入ったためにこんな時間に目が覚めたのだ。
「ま、健康的なんだろうけどなあ」
折角もらった休みだ。次はいつもらえるか分かったものではない。ゆっくり、有意義に過ごそう。
そうは思ったのだが。
「……とりあえず、剣でも磨くか」
他にすることも思いつかず、フリックは棚にある道具箱を取り出した。それを机の上に置き、剣を手に取る。
鞘からすらりと抜き放った愛剣は、陽光に煌き、光をはじく。
戦場から帰った時には必ず磨くし、このように何も無くとも定期的に磨くようにしているため、汚れたまま鞘に収めることはまずないのだ。
人によっては「所詮人殺しの道具」と言うかもしれないが、フリックにとってこの剣は、大切な人の命を守れるものであり、頼もしい相棒―――というよりも、自分の体の一部になっている。
と、そのとき、刃の一部分がかすかに欠けていることにフリックは気がついた。
眉をひそめて、その部分をじっと見つめる。
「―――こないだの打ち合い、かな」
ミューズに偵察に出る前、珍しくも真剣で手合わせした相手の顔を思い出してフリックは顔をしかめた。
「ったく、あの馬鹿力め」
まともに相手の剣を受ければ、フリックの剣が折れるほどの力を持つ男に悪態をつきつつ、鞘に剣を収めた。
欠けている以上、磨ぎに出したほうがいいと判断したからだ。
以前は自分で刃こぼれも研磨して直していたが、今では鍛治屋のテッサイがいる。彼の手にかかれば、どんなに痛んだ剣でも必ず新品同様に鍛えなおしてもらえるのだ。
剣の面倒は自分で見るというポリシーを持っているフリックだが、やはり修理は専門家に遠く及ばない。
剣を片手に、フリックは部屋を後にした。


「あっ、フリックさんだ」
城内を歩いていると、背後から名前を呼ばれてフリックは振り返った。
「珍しいですねー。フリックさんがこんな時間にぶらぶらしているの」
「ぶらぶら、はないだろ。アップル」
苦笑してフリックが言うと、アップルの隣にいたメグがくすくす笑った。
「でもほんと、珍しい。フリックさんがのんびりしてるなんて」
「……そんなに俺、忙しそうか?」
メグの言葉にフリックはうーん、と唸った。確かに軍師や城主にあれこれ色々と面倒を頼まれることが多い自覚はあるが、改めて第三者からそう言われると、本当にそうなのかなあとつくづく考えてしまう。
「うーん。忙しそうっていうか、仕事は忙しいのは分かるんだけど、それ以外の時にもたいていビクトールさんの面倒を見てて大変そうだから」
あっさりと言われたメグの言葉に、フリックは思わず額を押さえた。
「め、面倒を見てるつもりは、これっぽっちもないんだが……」
「えー、見てますよー。昔はそんなでもなかったけど、こっちに来てからはホントそう思いますよ。ねぇ、アップルちゃん」
「そうよね、見てると思いますけど」
断言され、ますますフリックは落ち込んだ。
お互いいい年した大人だ。ほっといてもひとりでどうにかする相手の面倒を見てるつもりはまったくなかったのだが。
そんなフリックの心の動きを少しも察せずに、メグはくすくす笑って言った。
「ま、せっかく軍師様からお休みもらってるんだし、ビクトールさんもいないんだから、ゆっくり休んだら?」
「そうですよ、いいお天気なんですし」
言いたいことだけ言って、少女たちは去っていった。後に残されたフリックは、しばし肩を落としていたが、メグの「せっかくの休み」という言葉を思い出し、顔を上げた。
「とりあえず、あの熊のことはおいといて。まずはテッサイの所へ行こう」
うん、とひとつ頷き、フリックは当初の目的地へと向かって再び足を進めた。


『あのっ!くそたわけ馬鹿熊がっ!』
店の扉を開いた矢先に耳に飛び込んできた声を聞き、フリックは思わずそのまま扉を閉めてしまった。
「まずったなあ…」
どうやら先客がいたらしい。しかもその「客」は、普段から気難しい性格をしているところにすさまじく機嫌が悪いようだ。
今までの経験上、こういう時には近づかないに限るとフリックは知っていた。だからまた後でこよう、と判断して踵を返そうとした。
だがしかし、立ち去ろうと思った矢先に、目の前の扉がいきなり開け放たれた。
「うわっ!」
思わず一歩下がると、『用があるならばとっとと入って来い!』という怒鳴り声が飛んでくる。
「あ、ああ」
素直に頷き、フリックはテッサイの鍛冶屋へ足を踏み入れた。
怒られる筋合いはないとは思うのだが、だからと言ってフリックは反論したりはしなかった。反論しようものならば、100倍になった小言が返ってくるのが目に見えている。
「おお、フリック殿。今日はお休みか?」
明らかにほっとした表情で、主のテッサイがフリックに声をかけた。それに苦笑しながらフリックは頷く。
「軍師から、休んでいいって珍しく言われてな」
「左様か。剣を持ってきたということは修理かな?」
「そうなんだ。少し刃こぼれがあってな…。小さいうちに、直しておきたくて」
腰にさした剣を鞘ごと引き抜き、フリックは大事そうにテッサイに手渡す。テッサイも、フリックの剣に対する想いを知っているから、丁重な手つきで受け取った。
「わかった、預かろう。……今日中であれば構わないかな?」
「ああ、大丈夫だが………大丈夫か?」
妙な言い回しをして、フリックはちらりと左前方を見た。テッサイも同じ方向を見る。
部屋に入ってから声をかけられないのをいい事に、あえて見ない振りをしていたのだが―――そこには、怒りのオーラを身に纏った星辰剣がぷかぷかと浮かんでいた。
『入って来い!』と怒鳴りつけたくせに、なぜかフリックが店に入ってからは一言も口をきいていない。
心底機嫌が悪いようだ。それでテッサイに「大丈夫か?」と聞いたのだが、テッサイは苦笑を返すだけだった。
「そもそも、なんでここにいるんだ?」
星辰剣の使い手―――星辰剣本人によれば、使い手というより家来―――であるビクトールは、昨日から仕事に出ていて風雲城を空けている。近所に出て行ったわけでも遊びに行ったわけでもないのに、何故武器を置いていったのだろう?
そんな疑問が顔に出たのか、沈黙を守っていた星辰剣がくるりとその刃先をフリックに向けた。鞘に入っているとはいえ、そのような行動に出られてフリックの顔が引きつる。
「ど、どうしたんだ?星辰剣。てっきりビクトールと一緒に仕事に出ていると思ったんだが……」
ビクトール、という言葉に星辰剣がぴくりと反応する。あ、しまった、とフリックが思ったときは遅かった。
『あの馬鹿熊がっ!!日頃から手入れはしないは使い勝手は荒いは、まあ私が真の紋章で素晴らしい剣だからそんじょそこらの剣のようなやわさはないが!!』
「あ、ああ、そうだな」
フリックは、非常に興奮した口調で怒鳴る星辰剣につい相槌をうつ。すると星辰剣は少し気をよくしたのか勢いを和らげた。
『お前はわかっているし、たまに私も磨いてくれるから、まあいいのだが、』
磨け、と強要されているからとは口が裂けても言えず、とりあえずフリックは黙って頷いた。
『どうしようもない大たわけ者だとは知っていたのに、珍しくも磨ぎに出すなどと言いおって、なにか裏があるとは思ったが!』
「あ、磨ぎに出しにきたんだ。珍しいなあ」
思わず、といった感じでフリックが言うと、『それが目的ではなかったのだ!』と星辰剣が激しく揺れた。どうやら怒りのあまり身体(?)を震わせているようだ。
『ただ単に、連れて行くと煩いから、などとぬかしおって!!一体全体私を何だと思っているのだ!!!』
ようやく自体が飲み込めてきて、フリックは思わずため息をついた。
要するに、ビクトールはこの煩い星辰剣を仕事に連れて行きたくなくて、わざとテッサイの元に置いていったのだ。そしてだまし討ちを食らったような形になり、星辰剣は怒り狂っているというわけか。
ビクトールの態度は誉められたものではない―――と言うよりも、戦士たる人間が普段使用している剣を手放すなどともってのほか、なのだが、如何せん星辰剣は持ち歩くには………煩過ぎる。
「磨きはおわったのか?」
星辰剣ではなくテッサイに聞くと、「もうばっちりです」と言う。それで余計に、持て余し気味なのだろう。
テッサイが不憫だとは思ったが、フリック的にはこれ以上巻き込まれたくなかったので、「じゃ、俺はこのへんで……」と引きつった笑みを浮かべながら扉に向かった。
「フリック殿〜」
少しだけ情けない声でテッサイが呼ぶ。心が痛んだが、敢えてフリックはその声を無視して店を出た。後ろ手で扉を閉める。
『そもそもあやつは私の価値を本当にわかっているのだろうか』
まだ星辰剣の言葉が続いている。おそらく、預けられてからずっとこの調子だったのだろう。哀れテッサイ。
しかし、折角の休みを星辰剣の小言を聞くので終わらせる気はフリックには無く、振り返ることはしなかった。


「あら、フリックさん」
図書館の扉を入ると、司書のエミリアがにっこりと微笑みかけてきたので、フリックは軽く手を上げて挨拶をしてから近づいた。
「エミリアさん、こないだ頼んだやつだけど……」
「ああ、あの本ですね?」
司書用の机の後ろにある本棚に立てかけてあった本を3冊取り出すエミリアを見て、フリックは「あれ?」と首をかしげた。
図書館に入っていなかったので取り寄せを頼んでいた本は、確か5冊。ということは、残りの2冊は手に入らなかったということだろうか?
「ごめんなさいね、フリックさん」
すまなそうな表情のエミリアを見て、フリックは自分の予想が当たったと思った。しかし、エミリアの口から出た言葉は、全く別なことだった。
「全部、手に入ったのだけど……さっきいらっしゃったお客様が、ここに置いてあるのを見て、どうしても読みたいからって言って……」
本当にごめんなさい、と謝るエミリアに、フリックは慌てて首を横に振った。
「いや、別に急ぎじゃないからいいんだ。それに、その客が読み終わったら図書館に戻ってくるだろ?それからで構わないよ」
「でも……」
司書として約束したことを反故にしてしまって、と悔やむエミリアに「そんな深刻になることじゃないって、」とフリックは笑い、3冊の本を受け取った。
「今日はこれを読むだけで終わってしまうよ、たぶん」
じゃ、と軽く手を上げ、フリックは踵を返した。
「戻ってきましたらご連絡しますね」
エミリアの言葉を背中に受け、フリックは図書館から出た。
扉を閉めてから、フリックは立ち止まって改めてその3冊の本を見た。
「………こんな本を読みたがる奴が他にもいるとはね………意外だな」
自分で頼んでおいて言う台詞でもないのだが、フリックは呆れたようにそう言った。
本は全て深い緑のベルベット地で覆われ、金の装飾文字が背表紙を飾っている。
『紋章術総論・補足資料』
それが3冊の本の共通のタイトルだった。
補足資料、となっているだけあって、本編の『紋章術総論』に書ききれなかった情報がとりとめもなく書かれている本である。
しかし、この『紋章術総論』本編も全20巻あり、各巻おおよそ1000ページ以上はある。そこに書ききれない情報となると本当にマニアック極まりない内容なので、紋章術に興味のある人間でも滅多に手を出さない。それは、この補足資料が市場にほとんど出回っていないという事実からもなんとなく推し量れる。
今回フリックが頼んだのは、全部で10冊ある補足資料の1巻から5巻までだった。1巻目が紋章全般についてであり、2巻・3巻が真の紋章についての伝承、そして4巻・5巻が雷の紋章と火の紋章に特化した内容になっている。
抜けているのは2巻と3巻。どうやら先客は真の紋章についてを知りたかったようだ。
「誰だろうな……一体……」
少しだけ、その借りた客が気になって、しばしフリックはその場で考え込んだ。


エミリアに聞けば分かるということに気がついたのは、それからきっかり3分後であった。


「え。借りた人、ですか?」
図書館に引き返してきたフリックに、エミリアは首をかしげて問い返した。
「ああ、一体こんなの読みたがるのは誰かな、って……ああ、別に催促しようと思って聞いてるわけじゃないんだけど」
後半を慌てて言ったフリックに、エミリアは少しだけ逡巡した。
誰が、どの本を借りているか。それは図書館が管理すべき個人情報であり、外部に開放していないものである。それを一部とはいえフリックに教えてしまっていいものだろうか。
しかし、その迷いも次のフリックの台詞であっさりと消えうせた。
「……駄目かなあ?」
少しだけがっかりした表情で首をかしげたフリックがなぜか子供っぽくて。
早い話が「情にほだされた」感じになったエミリアはくすくす笑いながら教えた。
「今回だけですよ?それを借りられた方はね、」
続けられた名前に、フリックは驚いて目を丸くした。


そよそよと爽やかな風が中庭を吹きぬけていく。
図書館横のフリックのお気に入りの大木の下には先客がいた。
その先客が腰を下ろした横には、広げられたバンダナの上に丁寧に本が2冊置かれている。
ということは、既に読み終わったのだろうか?
「……それは早すぎだなあ」
呟きながらフリックは先客に近づいていった。
おそらく相手はすでにフリックの気配に気付いていたのだろう。驚いた様子もなく顔を上げてにこりと笑った。
「やあ、フリック」
相変わらずの挨拶をする少年に、フリックも同じように「よう」と返して本を指差した。
「読み終わったのか?」
だとしたらすごい、という調子で言うと、少年は「いや、小休止中」と答えた。そして、自分の横を指差して続けた。
「とりあえず、座らない?」
その言葉にフリックは素直に従った。元々図書館で本を借りたらここで読むつもりだったのだ。
座ると大分目線の高さが近くなる。穏やかな雰囲気の少年はにこりと笑ってフリックの手元―――3冊の本を指差した。
「こんなかなりマニアックな本を読むなんて、勉強熱心だね、フリック」
「……お前に言われたくはないぞ、リュウト」
マニアック、と言われて心当たりがありすぎるフリックは苦笑して少年―――リュウトに言葉を返した。
フリックの言葉に、リュウトはさらりと言い返す。
「お互い様だろ?」
確かにその通りだ、とフリックは笑った。
バナーの村で同盟軍盟主フェイと出会ってから、何を思ってか今回の戦いに力を貸すと言い出したリュウトは、時折こうして風雲城までやってきている。
フェイのお供について行くこともあれば、昔の仲間達と飲んでいることもある。ヤム・クーのところで釣りをしていたり、こんなふうに、ぼうっとしていることも多かった。
そんなことを思い返していたフリックに、「それにしても、」とリュウトは首をかしげた。
「雷の紋章の記述が載ってる部分なら分からないでもないけど―――なんでまた、真の紋章の本まで?」
リュウトの言葉に、フリックは少しだけ驚いた顔をした。今までそんな質問をされたことがなかったからだ。
それでも、今まで自分の中で考えていたことを、フリックはゆっくりと説明した。
「確かに俺は、真の紋章を持つ者じゃない。だけどな、何の縁があってか、真の紋章を持つ人間に結構深く関わることが多くてな、」
そう言ってリュウトの右手をそっと見た。その視線に、リュウトは苦笑しながら「そうだね」と頷く。
「だから、かな。俺自身は真の紋章を持たないが、それが気になる存在になってしまったんだよ」
真の紋章は、持ち主に強大な力を与えるだけではなく、辛い運命まで背負わせる―――そんなモノが、好意をもっている人間に関わっているのだ。気にならないわけがなかった。
そんな彼らに、自分が出来ることは少ないかもしれないが、それでも知識があれば少しでも対処できることが出来てくるかもしれない。少しは、その運命を軽くすることももしかしたら出来るかもしれない……。
「だから、暇な時にはちょこちょこと本を読んで勉強してるんだよ。それに、真の紋章は、俺らが使っている普通の紋章のオリジナルとも言えるだろ?それのことをよく知れば、俺が使ってる紋章も、より一層上手く使いこなせるかもしれないしな」
フリックの話を、珍しく口を挟まずに真剣な表情でじっと聞いていたリュウトは、くすりと微笑んだ。
「なんだか、すごく『らしい』考えだよね、フリック」
「そう、かな?」
「うん。ちょっとだけ―――感動した」
リュウトのストレートな感想に、フリックは言葉に詰まった。思わず空に視線を逃して「あー、そ、そうか?」と口篭もる。
「そーゆー反応も、『らしい』けどねー」
だから飽きないんだよねぇ、と言われてフリックは思わずリュウトの頭を小突いた。



その後。

「あー、疲れたぁ…」
フリックは抱えていた本だけ枕もとへ退避させ、ばったりとベッドに倒れこみながらそうぼやいた。
しばらくぴくりとも動かずにいたのだが、服も靴も身につけたままだったので、寝転がったまま靴だけを脱ぎ捨てた。
無造作に手袋を外してベッドサイドのテーブルに投げる。上手く乗らずに床に落ちたが、それを拾う気力もなかった。
昼前にリュウトと図書館横で出会ってから陽が暮れかけた今の今まで、ずっと紋章術について論じていたのだ。
真の紋章についてはもちろん、普段フリックがよく使っている雷の紋章や火の紋章についてまで、実に幅広くあれこれと議論を戦わせていたのだ。
「……戦い以外でこんなに頭を使ったのは久しぶりだ……」
紋章をいかに戦略的に使用するか、をかなり熱く語っていたのをすっかり忘れてフリックは呟いた。
リュウトが「そろそろ帰らないと」と言い出さなかったら、陽が完全に暮れるまで外で話し込んでいたに違いない。
「今日はシチューなんだ」と夕飯までに家に帰ると約束していたらしいリュウトはそう言って、『紋章術総論・補足資料』全5冊をフリックに手渡した。
フリックはそれをもったままビッキーの元までリュウトを見送り、そのまま部屋へ戻ったのだ。
「夕飯……どうするかな」
昼過ぎ頃に、たまたまフリック達が討論している側を通りかかったヨシノが気を利かせて軽食を差し入れてくれたが、それを食べたきりである。疲れきった頭は、糖分を欲しがっているようにも思えるのだが、一度横になってしまったら立ち上がる気力がなかなか出てこない。
「うーん………」
枕に頭を押し付けたまま唸っていると、突然頭にひんやりとした感触が生じた。
「うわ冷たっ!?」
思わずがばりと起き上がる。そんなフリックに呆れたような声が投げられた。
「お前、灯りもつけんで何やってんだよ」
言葉と共に、ベッドサイドのランプをかちゃかちゃといじる音がする。
「ああ、お疲れ、ビクトール」
明かりが灯る前から声の主は分かっていたので、フリックは部屋が明るくなる前にそう言った。
しゅっとマッチをする音がし、橙色の暖かい光が灯る。その灯りに照らし出されたのはやはりビクトールだった。
「めずらしいな。扉、開いてたぞ」
ランプの風除けの覆いを戻して、ビクトールはフリックのベッドから離れた。そのまま自分のベッドに向かい、荷物をどさりと落とす。
ふとランプを見ると、その隣に先ほどまでなかったものが置かれていた。
「……なんだコレ?」
青い硝子でできた、細身の瓶だった。ラベル等はまったくついておらず、中身は分からなかった。
手にとると、ひんやりとした感触。先ほど頭に感じた感触を思い出し、フリックはビクトールを振り向いた。
「さっき、頭に置いたのはこれか?」
手袋を脱ぎ捨てていたビクトールは、フリックの手元を見て「ああ、」と頷いた。
「土産だ」
「ワイン?」
「そうだ」
灯りにかざしてみるフリックに、ビクトールは棚からグラスを取り出して近づいて一言。
「青いからな。なんとなく」
「……さんきゅ」
なんとコメントしていいのか一瞬考えてしまったフリックだったが、折角土産として買ってきてもらったのだから、と礼を言う。
「ほら、開けてみろよ」
そう言われて素直に開けようとしたフリックだったが、そう言えば夕飯がまだだったことをはたと思い出した。
「ビクトール、お前夕飯は?」
「そういやまだ食ってねぇな」
「じゃ、これは夕飯食いながらにしたほうがよくないか?」
すきっ腹に酒はさすがに身体によろしくないだろうと思い、フリックが提案すると、「それもそうだな」とビクトールも同意した。
あっさりと同意したのは、多分身体がどうこうというよりも、腹がすいていたのだろうとは、続いて聞こえてきたビクトールの腹の音で予想がついた。
足元に転がしていた靴を履きなおし、フリックはワインを持って立ち上がった。ビクトールがランプの明かりを消すのを確認して部屋を出ようとして、立ち止まる。
「どうした?」
いきなり立ち止まったフリックに、ビクトールもつられて立ち止まる。
くるりと振り返り、フリックはビクトールの腰を見た。
「―――やっぱり、お前まだテッサイのところに行ってないな」
ビクトールの腰に下げられたのは獅咬の剣。昔使っていた剣だ。
いつもの癖で部屋を出る際に腰に手をやって、フリックは自分が剣を下げてないことを思い出し、そしてその原因を思い出したのだ。
要するに、星辰剣がテッサイのもとからいなくなってから彼を訪ねようと思っていたのだ。
あれだけ口うるさくなっていた星辰剣の元を再度訪れる気力がなく、フリックは愛剣を取りに行かなかったのである。
フリックの言葉が何を意味するのかわかったらしく、ビクトールはへらっと笑ってフリックの肩を叩いた。
「いいて、あのじーさん煩いからよ。レオナのところに行く前に取りに行っちゃ、ゆっくり飲めやしねぇ。それに、テッサイももう店仕舞いしてるだろうさ」
そのつらっとした発言に、フリックは反射的にビクトールを蹴り飛ばした。
「お前の剣だろうがっ!人様に迷惑を掛けないように自分で管理しやがれっ!」
「いてっ!」
脛に綺麗に入ったフリックの蹴りは結構痛かったらしい。少しだけ涙目になりながらビクトールはぼやいた。
「畜生、わかったよ。取りに行きゃいいんだろ、取りに」
不承不承、といった調子でビクトールは先に部屋を出ようとして―――固まった。
「どうした、ビクトール?………っ!!!!」
ビクトールの後ろから顔をのぞかせ、廊下を見たフリックも固まった。
『…………何か言い残したい言葉はあるか?』
全身(?)を怒りのオーラに包んだ星辰剣が、そこにいた。
フリック達の部屋の前の廊下に、ぷかりぷかりと浮かぶその剣の鞘の部分に精緻な細工で作られた「眼」がきらりと光る。
『ああ、熊如きに言い残したいことなぞ、ある訳もなかったなああああああ!!』
「ま、待て星辰剣っ!」
その剣から放たれる膨大な魔力に怯みながらなんとか星辰剣を止めようとするフリックと。
何も言わずに脱兎のごとく逃げ出そうとしたビクトールと。
怒れる星辰剣からは、どちらも逃げ出すことが不可能だった。
『頭を冷やして来い!!!』
星辰剣の声と同時に魔力が解放される。轟音が鳴り響き、そして。



「な、何事だっ!?」
階下からものすごい勢いで階段を駆け上がってきたマイクロトフがその場で見たものは。
廊下にばったりと落ちている星辰剣と、扉が開け放たれたままになっているビクトールとフリックの部屋だけだった。
「い、一体何があったのだ?」
全く訳がわからずに動揺して呟いたマイクロトフに、床に転がったままの星辰剣がぼそりと言った。
『あ奴らなら、どこか適当な所に飛ばしたやったわ』
「………………………………………………ななななななんですとっ!」
星辰剣の言葉を理解するまでおよそ5秒。理解して星辰剣に詰め寄ったマイクロトフだたが、その時星辰剣は魔力を使いすぎて眠りについてしまっていた。



「折角の休みだったのに………なんで俺がこんなところに飛ばされなきゃならないんだよ………」
「悪かった。本当に、俺が悪かった」
平謝りに謝るビクトールに冷たい目を向け、その向こうにさらに目をやり、フリックは溜息をついた。
「三度目はないと思ったんだがな……」
この都市同盟に初めて入った時に見た光景――― 一面に広がる砂漠―――と同じものを見ながら、フリックは途方に暮れていた。



「全く、どうしてあいつはトラブルに巻き込まれるかな……」
折角休みをやったのに、とぼやく軍師に、諦めた表情で盟主は言った。
「フリックさんだからでしょ」
立てかけてあったトンファーを持って、フェイは立ち上がった。
「フリックさんたちを迎えに行ってくるね」
「あてはあるのですか?」
どこぞ遠くに飛ばされたとしか分かっておらず、しかも飛ばした本人はうんともすんとも言わない状態になってしまっている。
「紋章がらみだから、ルックにでも聞いてみるよ」
そう答えて、フェイは足取りも軽く出て行った。仕事ではなしに外出できるので嬉しいようだ。
「………働かせても、休ませても、トラブルに巻き込まれるならば、働かせた方がいいな………」
シュウはそう結論付けて、スケジュール表のフリックの欄に「休暇:年内なし」と赤字で書き足した。

こうして、充実した一日になるはずだったフリックの休みは幕を閉じるのであった―――。


fin...

■あとがき■

last update 2002/11/26